展覧会の紹介

描かれた北海道
18、19世紀の絵画が伝えた北のイメージ
2002年7月12日(金)〜8月27日(火)
北海道開拓記念館(札幌市厚別区厚別町小野幌53の2)

 男 「どうして開拓記念館で絵の展覧会をやるんだろう。開拓記念館って、博物館だろ?」

 女 「これは、美術館でひらく絵画展とは、根本のところで意味がちがうのよ。美術館で展示されるのって、美術品だけでしょ」

 男 「あたりまえじゃないか、それは」

 女 「それがあたりまえでもないのよ。だって、美術品がどういうものかとか、美術展とはどんなものなのかっていうことが、社会的に認知されるようになってからまだ100年くらいしかたってないじゃない」

 男 「でも、浮世絵は昔から美術品だったんじゃないのかい?」

 女 「それがそうとも言い切れないのね。明治以降の人が欧米の影響を受けて美術品としてあつかうようになったからというほうが、じつはあたってるんじゃないかしら。庶民が見てたのしむ、という観点でいえば、すごろくだって菊人形だって浮世絵とそう変わらないはずだけど。反対に、いまは美術品としてだれもがうたがわない油絵だって、明治初期には浅草で見世物としてあつかわれていたことだってあったのよ」

 男 「で、この開拓記念館での展覧会は、どこがちがうんだい」

 女 「とにかく、江戸から明治前半にかけて、北海道を描いたものなら、それが美術品として価値があるかどうかに関係なく、手当たりしだいに集めた展覧会なのよ。油絵のほか、錦絵や浮世絵や写真、なんでもある。美術館の展覧会は、作品それ自体か、あるいは作家が評価されているものでなければ展示されないじゃない?」

 男 「なるほど。いまのように、新聞もテレビもない、カラー写真も無い時代だから、絵が人々のイメージ形成にはたした影響は大きいわけだね」

 女 「そのとおり。きっと、絵が、いまよりずっと実用的だった時代なのよ。美しさだけを追い求めていたんじゃなくてね」
 男 「全体的には、やっぱり広い大地、みたいなイメージが多いのかなあ」

 女 「それより目立つのは、アイヌ民族の絵ね。200年にわたる鎖国が解けた時代だから、それは興味津々ってかんじ。歌川広重(二代)「万国入舶寿語録(すごろく)」には「ゑぞ」というコマにアイヌ民族がえがかれているけど、オランダ、北京、どいつなどに交じって「小人国」「胸穿国」なんてコマもあるのよ」

 男 「なんだい? その胸穿国って」

 女 「胸に穴が空いている人たちの住んでいる国のことみたい。もちろん架空の国なんだけど、おなじく出品作の歌川芳幾「万国男女人物図会」にも出てくるから、幕末の人は信じてたのかしらね」

 男 「アイヌ民族の肖像といえば、蠣崎波響だよね」

 女 「今回は、1790年に描かれた「御味方蝦夷之図」という2枚1組の肖像画が展示されているのよ」

 男 「和人を描いた絵もあるんだよね」

 女 「もちろん。全体としては、風景、動植物、和人地、アイヌ−容姿、アイヌ−生活、アイヌ−漁猟、アイヌ−クマ送り、開拓、街、名所、産物、伝説というセクションにわかれているの」

 


 うーむ、会話体で書くのはけっこうつかれる。
 いま書いたように、この展覧会は、そもそもの「美術」という概念を根底から問う側面をもっている。
 近年は「美術」概念の見直しが進んだためか、たとえばマンガを取り上げるなど、美術館のカバーする範囲はだんだんひろくなってきている。また、100年近くも前から、アヴァンギャルドの運動は非「美術」的なものを称揚して、既存の美術を攻撃してきた。
 しかし、そのことで「美術」が衰退したかといえばさにあらず、「美術」は貪欲に、それまでは「美術」と考えられなかった周辺分野ものみこんでなお肥大をつづけているのである。
 まあ、そんなむずかしいことを考えなくても、この展覧会は楽しめるとおもう。
 名作にあえる展覧会かと問われれば、それはちょっとちがう、とこたえるしかないけれど。

 「美術」概念の見直しは、必然的に「美術史」の見直しにつながるだろう。
 以前もちょっと書いたけれど、これまでの北海道の美術史は、蠣崎波響らの例外的な先駆者を別とすれば、大正末期の林竹治郎の帝展入選、有島武郎による北大黒百合会の結成、道内各地で「赤光社」(函館)などの美術団体の旗揚げと「道展」への糾合−といったあたりから筆を始めるのが通例となってきた。
 それは正しいのだろうけど、ではそれ以前はどうだったのかという疑問はある。
 この展覧会は「それ以前」について、あらたな見通しをあたえてくれる構成になっていると思う。
 また、江戸から明治にかけて、人口が少なくかなりマイナーな地域であったはずの北海道にも、いろんなタイプの美術家が絡んでいることもわかる展覧会である。

 それでは、それぞれの作品で、個人的に気のついたことを書いていこう。
 疋田敬蔵「北海道小樽港有幌之景」(1881年)
 疋田(1851−1914)は、79年から81年まで開拓使の御用係として道内で働いていた。
 展覧会の図録によると、横山松三郎から油絵を学び、76年に工部美術学校に入学。明治期の、黒田清輝とならぶ巨匠の浅井忠、小山正太郎らとともに、フォンタネージから絵を教わっている。
 この絵がすごいのは、いま見ても
「あ、オルゴール堂のちかくの、ステーキヴィクトリアの裏の崖だ」
ということがすぐにわかってしまうことである。
 小樽運河の埋め立てと片側3車線の道路建設は周囲の地形を相当変えてしまったが、この崖はいまにおもむきを伝えている。
 展覧会には「開拓使紡績場」(1881年)という、本格的な油彩も出品されている。もちろん、現代の水準からすれば稚拙な絵だが。
 この紡績場がどこにあったのかは、図録には説明がない。おなじ1881年に出された「札幌市街之図」に、北2東2に「紡績所」という記載があるので、これかもしれない。

 「アイヌ−容姿」のセクションでおどろいたのは、高野長英松浦武四郎の絵のうまさである。いや、筆者が知らなかっただけかもしれないが。
 長英といえば、幕府の鎖国を批判して処罰される「蛮社の獄」で有名だが、「蝦夷酋長之図」という絵を図録でみるかぎり、なかなかの腕前。
 武四郎は「石狩日誌」「蝦夷日記」などのほか、名所のセクションで「新版蝦夷土産道中寿五六」(1864年)というのも出品されている。べつに、絵かきに挿絵を頼まなくてもいいのに、とおもうほどだ。
 そういえば、林子平、新井白石も、なかなかの絵が出品されている。
 菅江真澄は、いわずと知れた江戸の大旅行家・紀行作家。やはり北海道にも来ていたのですね。

 木村巴江「ウイマム図」(1882年ごろ)
 ウイマムとは
「アイヌが藩主へ土産持参で謁見し、藩主からその代償として贈物を受ける儀礼行為」
と、図録にあります。
 それにしても、こんなに腰を曲げてあるかなくてもいいのにアイヌ民族の皆さん、と筆者はおもいます。なんか、権力関係が出てるみたいでいやですねー。「いやですね」というのは、正確な書き方じゃないな。この腰の曲げ方に、松前藩の居丈高さみたいのが見えるのが、どうも…という感じです。
 木村は明治前半の道南で活躍していた画家のようです。函館市博物館学芸員の霜村さんが調べているので、ぜひこちらのサイトもお読みください。

 平沢屏山(宮原柳遷模写)「蝦夷風俗十二ヶ月屏風」(〜1876年)は、その名のとおり、アイヌ民族の漁撈やクマ送り、炊事などを12の絵に描いたもので、なかなかの出来である。
 平沢(1822−76年)は、弘化年間(1844−47年)に箱館に移り住み、多くのアイヌ絵を制作したということです。
 さきにふれた、「ウイマム図」の作者、木村巴江の師匠にあたります。

  
 平福穂庵「風俗画報挿絵:アイノ人住居の図(復刻)」(1889年)
 どっかで見た名前だなーと思ったら、やっぱり、日本画家・平福百穂は息子でした。
 穂庵は1844年、角館(秋田県)生まれ。72年、77年、82年と3回にわたって函館を訪れ、とくに最後は2年間も滞在していたとのことです。
 19世紀の秋田は、当時の洋画の尖端地ですから、彼が画家を志したことにも影響があったかもしれません。
 道立函館美術館が彼の「神農図」を所蔵しています。
 寺崎広業「風俗画報挿絵:鋤雲翁狗車疾駆図(復刻)」(1890年)
 寺崎(1866−1919年)は、穂庵の弟子にあたります。
 同美術館に「唐人物」が所蔵されています。

 岩橋教章「函館戦争図絵」(1869年ごろ)
 図録によると、教章(のりあき、1835−83年)は、開陽丸の砲手頭として函館戦争に参加した旧幕臣だそうです。
 1861年、幕府軍艦操練所絵図認方に登用されます。絵を狩野洞庭に学び、また写真術や西洋図法を島霞谷(1827−70年)に教わります。ちなみに島は、蕃書調所(開成所)に出仕しており、わが国の写真家のさきがけのひとりでもあります。
 彼は、その後ウィーンに留学して版画技術を学びます。75年に描いた水彩画の「鴨」(三重県立美術館蔵)は図版で見るかぎり、見事なリアリズムで、高橋由一の「鮭」に先駆けた静物画の劈頭をかざる名作といえますが、ほかにあまり実作がのこっていないようです。
 彼の同僚で、幕末から明治にかけての美術史でわすれてはならない名前が川上冬崖(とうがい)です。
 洋画の指導書「西画指南」を描いたり、維新後は画塾で小山正太郎や松岡寿を指導したりしています。陸軍省で地図の制作にも携わるなど幅広く活躍しました。
 彼の、宮内庁旧蔵で、戦災で焼失した「北海道土人之図」「北海道茅部領之図」については、図録に写真が載っていますが、長野の信濃美術館にあるはずの「樹木写生(北海道風景)」は今回出品されておらず、図録にもふれられていないのがざんねんです。

  
 今村三峯「蝦夷静内仏教創建供養図」(1870年)
 今村(1830−1905年)は、1864年ごろ松前藩で絵を指南していたことがわかっているそうです。師匠は、蠣崎波響門下の熊坂適山です。
 この絵で、筆者がうーむとおもうのは、輪になった人々のかたわらに、どう見ても酒樽にしか見えない物体がふたつおかれてあることです。ひとつは「大山」と書かれています。いいのかなあ。

 沢田雪渓「北海道渡島国鶉山道開鑿真景」(1885年)
 鶉山道? どこじゃー、と思って地図をさがすと、どうやら現在の大野町から厚沢部町に向かう峠のようです。
 なかなかの難所であったらしく、1854年に開削の試みがはじまったものの途絶。
 その後鈴慶甚吉衛門の開削、東本願寺や函館県(開拓使と道庁のあいだの3年間だけ、道内は函館、札幌、根室の3県にわかれていた)の改修を経て、道らしくなったとか。
 沢田はよくこの展覧会には登場する画家ですが、1882〜87年ごろに函館に滞在していた模様です。

 けっこうな分量になってきたので、あとは、筆者でも知っている画家の出品作にふれるにとどめたいと思います。
 歌川芳幾「万国男女人物図会」「万国人物尽ゑぞ人」
 歌川豊国「現如上人北海道巡教錦絵」
 田本研三撮影「札幌一ノ村の景」「平岸村開拓の景」
 小林清親「第二回内国勧業博覧会五角堂之図」
 歌川国芳「山海愛度図絵;松前おっとせい」「山海愛度図絵;松前鮭」
 歌川広重「大日本物産図絵;千島国海獺採之図」「大日本物産図絵;北海道函館氷輸出之図」
 横山松三郎撮影「明治六年墺国博覧会出品写真帖」
 月岡芳年「大日本名将鑑 阿倍比羅夫」

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